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「510」客観性と宗教的と

自分に関係する範囲の中で、大小それぞれの良いことや悪いことがあったりすると、気持ち的に不安定になりやすくなるよな。そんなこともちょっとだけ客観的に見れるようになってきたという感覚が少しだけある。

例えば先週車をぶつけられた。ぶつかった瞬間(5分?10分くらい)は感情的にカーッと来てたから、まじ最悪だー!!ってなっていた。次の予定へ遅れることもそう、その場の仕事もすっ飛んでしまったりと。それから事後処理でぶつけた相手とか警察とかとやりとりして奪われる時間。その部分だけを見てたら最悪だったんだけど、でも実際は相手側の真摯な対応によってだいぶ心は和んだし、その対応ぶりは勉強にもなった。

このことはぼくなりに考察するに、起きた出来事に対しての自分の受け取り方次第で、良い方向にでも悪い方向にでもなんとでもできるということ。こういう事をぼくは知らないうちに結構繰り返してきていて、それが自然と経験となって、対応できる幅の広さになって、それが心の持ち様、つまりある種のゆとりにすらなってくる。

そう考えると、宗教がこの世に存在することや宗派とかに対してなんの否定もないけど、神や仏が存在するということは、少なからずぼくにとっては遠いことの様になってきた。神社で引くおみくじが大吉であれ凶であれ、それは単なる紙切れにすぎないし、人々の心を安心させるものであると考えられる。それに流されるのかそうでないのかはハッキリ言って自分次第だと。

うちの家族はもともととある宗教に入ってた。簡単に言えばどこの宗教にもある様な感じで、1人の人物の存在を崇拝し、その人の力(パワー)を受けることが出来ると。そのパワーを受ければ病気も治るだろうし幸せにもなれると。

幼少期のぼくは、それが結構当たり前で、そんなにおかしなことだとは思っていなかった。むしろ信じていたと思う。だからそれを信じるという人間の気持ちもある程度わかるつもり。

だけど、こうして大人になって思うことは、宗教というものはある種全ての人の中に存在していて、そもそも自分というものが宗教そのものであると。自分を宗教と呼ぶのは分かりやすく表現しているだけで、一番信じれるのは自分であり、一番疑うのは自分であるということ。

良いことが起きたことにするのも悪いことが起きたことにするのも、それを偶然と捉えるのも必然と捉えるのも、全て何もかも自分の仕業だ。

起きた出来事が良いことか悪いことかってことよりも、その起きた事象をスッと素早く腹に入れる。出された料理をまずは味見して、自分の体に合ってるかどうか判断する。こういうのってきっとアスリートとかも考えてるんじゃないかな。

ぼくはすごい苦手だけど、自分の持ち様によって、右に左に大きく揺れ動くのを、出来るだけ真ん中に保つ為にはそうして俯瞰した場所から自分をみることが必要なんだと。

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