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「83」

「今は遊んでる時期じゃない。今ここで遊んでしまうと、御天道様にいつか叱られる。バチが当たるかもしれない」と、そんな思いに無性にかられる時がある。生真面目だとか、そういうことを言いたいんじゃなくて、それはぼくの心の中にいるもう一人の自分だと思う。細かく言うと、例えば今日の今日、遊びに誘われたとする。今日のぼくはずいぶん暇だし、これといってやることはないけれど、それでも”今は遊んでる場合じゃない”ともう一人の自分が声をかけ、遊びを断ったりするコトがある。断ったとしても、結局何かするわけでもなかったりもする。だけどそれでいい。すっと心が楽になる。去年から今にかけては、特にそんな場面が多かった。

これをうまく言葉で表現できないが、なぜ遊んでる時期じゃないかというと、一つの可能性にかけているからだ。その可能性が少しでも逃げないように、しっかり掴んでいないと、またふっとどこかに去ってしまいそうで、ものすごく怖いのだ。事実、御天道様なんて実存しないし、迷信ではあるけれど、だけどこの迷信は、ぼくにとっては結構役に立つ。存在しないのに、あたかも姿形を持って存在するかのような感覚でいるんだから。バチが当たるとか当たらないとか、そんなことはないって半分は思っているけど、実はもう半分は、本当にバチが当たるんじゃないかって思っている。この半信半疑がきっとぼくの中の迷信ではうまくバランスが取れているんだろう。

でも冷静に考えると、バチが当たるか当たらないかって、それはもう結果論でしかなく、何か悪いことがあると「あの時御天道様を裏切ったからだ」って言って、”あの時の心の誤ち”のせいにしてしまうが、そんなことはないはずだ。言い換えると、それは単に”あの時手を抜いた”ということに過ぎないのだ。情けないが自分で自分を痛めつけることが出来ないから、バチを与えて頂いた。と思っているだけなんだ。内なる自分の声をしっかり聞いて、それに従ってさえいれば、きっと”バチ”なんてものは当たらないと思う。

今までなんどもこの迷信に、正に迷い込んできたが、やっぱり悪いことがあると結果的に手を抜いていた箇所が、後になってまじまじと見えてくるし、いいことがあると反対に、あの時しっかり心を正して、しっかり取り組んだということだ。

恥ずかしい話、こんな当たり前なことをやっと最近になって分かってきた。ぼくはこうしたちっぽけな葛藤を繰り返している。

人にはそんな、迷信があるに違いない。

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