ひょんなことから人助けをした。取引先のお客さんのところへ荷物を取りに行った時だった。少し早く着いたので会社前で待っていると、一人のご婦人が自転車を手で押していてなにやら困っていて「すみません、この近くに自転車屋さんはないですか?」と声をかけてきた。
ぼくはそのあたりは地元ではないからわからなかったのでその術を伝え「どうかしたんですか?」と問いかけた。よく見ると自転車のチェーンにストールが引っかかってしまい、自転車がこげない状態だった。こりゃ大変だと思いちょっと手伝ってみたがなかなか取れない。自転車屋さんに持ってくからいいよーとしきりに言っていたけど、ぼくは取れる気がしてたから「持って行ったらきっとお金もかかっちゃうしちょっとやってみますよー」と答えた。ちょうどそこに取引先のお客さんが来た。自転車を少し解体すれば取れそうだったのでドライバーをお客さんに借りてセコセコやってみた。ものの数分でパーツが外れ、ストールも簡単に取れた。
ご婦人は嬉しそうにありがとうといい、自転車で去っていった。ぼくらは手が油でギトギトになってしまったし、さらにぼくはお気に入りの白いパンツを履いていたため、パンツがかなり汚れた。しかしその見た目はどこか誇らしげに思えた。お手伝いをした勲章というか痕跡が残ったからだ。
なんだかいい気分だった。見返りを求めず困っている人に手を差し伸べるという行為は、人間が本質的にもともと持っているものなのだろうか。なぜあそこで汚れるのが嫌だからと言って近くの自転車屋を探さなかったのだろうかとも後々思うが。しかし多少のなにかを犠牲に(白いパンツ)してでも、自然と手を差し伸べたというのは面白い行動だな。
これは自分が良い事をしたという自慢話ではなく、これに繋がる話があるのだ。最近「日本文化における時間と空間(著:加藤周一)」という本を読んでいて、日本人は昔から自然とこの”助け合い精神”が育まれているのだろうということを思ったのだ。
小さな島国であり、さらに無数の村からなる日本は”外者(他の村の人など)”を受け入れなかった文化があり、同じ村人同士だけで支え合い生活してきた。外物を受け入れることが出来ない性質の変わりに”身近な人”への為なら惜しみなく尽くしてきた。(簡略的に書いているから語弊はあると思うが)そんな大昔の性質が今でも自然と出ているのだろうということだ。その後は日本全土として、村同士が共有し発展して一つの島国となった。今では日本全土に根本的に存在する性質が”助け合い文化”とも思える。
だからこそぼくがたとえ地元の人間じゃなくても知らない人であっても、自然と手を貸したのだろうと思える。今はグローバルな世の中で、ぼくらもインターネットや流通、人の行き来などで外者(外人)を受け入れているから、あれが外国の人であろうがもちろん同じように手伝ってたが。
些細なことで、今まさに読んでる本と話がつながったというお話だ。加藤周一の本は読むのに苦労するが非常に本質的でいて、それが面白い。
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