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「561」人生の最期

兄貴に北海道につれて行ってもらった。去年のGWだった。 それからもう1年が経つ。

早いもんだなぁと感じた理由は、おじいちゃんの体力の衰えが一気だからだ。 去年の時より、確実に痩せてしまって、最近では1日の散歩の数も減った。

確か5,6年くらい前?までは、まだ元気だった。その頃までは畑仕事をしていたからだと思う。土に触ってる時は元気だった。大体、一家族分の野菜をちょうどよく作ることなんて出来なくて、作りすぎた分は近所に配ったりなんかして、そういうことをしてるから近所の人との付き合いもそれなりにあった。

やがて、畑仕事をやらなくなった。最近ようやくやめた本当の理由を聞いたのだ。 当時は、沢山作っても結局は処分したりするし、周りに配る為だけにやってるのもとろくさく(アホらしく)なってきたとか、耕運機とかのメンテナンスも大変だからとか、そんなような外的要因の事を言っていた。

しかし今回聞く所によると、一番の原因は体力の衰えだったらしい。 とにかくえらくてやってられなかったと言っていた。

畑仕事をやめてから、みるみるうちに体力は衰えて、それでもぼくの飼ってる犬を毎日散歩につれて行ってたけどそれも最近では一切なくなり、ここ1,2年では特に膝が弱くなった。歩くのもトボトボ歩いていて、少しの段差にも簡単につまづいてこけてしまいそうだ。かつての男らしさはほとんどなくなった。

こんな事を書いている理由は、正直、おじいちゃんの最期が少し見えてきてしまっているからだ。

少し前に、近所の町医者で診察を受けてきてたけど、その内容をおばあちゃんにも黙っていて、最近、おばあちゃんが同じ町医者に行った所、ご主人の体調が良くないから、今度家族の人と一緒に来てくれと。それで最近父親が二人をつれて町医者に行った所、総合病院でしっかり検査し直したほうが良いとなり、ちょうど昨日、総合病院で見てきてもらったら、肺が弱っていて、恐らく肺癌の可能性があり、さらに転移しているかもしれないとの事。

老人は大体、肺炎と心疾患などで死ぬ。それ自体がほぼ老衰だと思う。 いわゆるエンジンが古くなったようなものだとぼくは思ってて、若ければそのエンジンを修理してまた乗り直したりするんだけど、何せボディももう古くなってしまってるから、直しようもない。そのまま乗り続けるしかないだろう。乗り潰して、新しい車を買い換える時期にきている。

医者の診断の内容は、まだ診断確定まではしていないが、ほぼ当たってるだろうと考えられるし、父親から状況を聞いたその瞬間は、少し気分が落ちたのは確かだが、しかし考えてみれば、老衰で死ねるということは、それまで健康にやってこれたし、非常に幸せだったんじゃないかと思ったりした。

おじいちゃんは3月で86歳になったばかりで、ぼくの予想では90前後くらいまでは生きると思ってる。と言ってももう数年しかない。

ぼくは兼ねてより、ずっとずっと、おじいちゃんやおばあちゃんに聞きたいことがあって、今日のお昼、たまたまおじいちゃんと二人で昼飯を食べる機会があったから聞いてみた。

①「やっぱり死ぬのは怖いものなのか?」 ②「いつくらいから、死を意識し始めたか?」

①について、 今の段階で、死ぬことは怖くはない。死ぬことは、少し前から死ぬことが頭を過るし、いつか死ぬから、徐々に受け入れてきたと思う。 ②について、 畑仕事をしていて、体力がなくなってきたあたりから、意識はしていた。

おじいちゃんの話口調は、どこか潔かった気がした。 もちろん、人の前で怖いなんて言えないだろうとも思うが、でも「こればっかりは、どうこう言ってもしょうがないことやでなぁ」と、受け入れざるをえないと言った様子だった。その言葉から、自然と、受け入れて行った様子がうかがえる。

確かちょうど一週間くらい前、親友に、5〜6年前の写真を送った。自分や親友がまだ20代後半だった頃のだ。そうやって写真を探っているうちに、別の友達との写真も出てきて、20代前半の頃の自分を見て、めちゃめちゃ若くてピチピチしていて、今の自分がいかにこの時より老けたかを実感させられた。

その時に、34歳のぼくは、これまでの10年、20年なんてあっと言う間で、そう考えたらこの先の20年、30年なんてまたあっと言う間に違いない。そう思うと、背筋がゾクっとするような恐怖がぼくの体を走った。

Ars longa, vita brevis.(アルスロンガー,ウィータブレイウィス)

最近知ったこの言葉は、17世紀の古代ギリシャのヒポクラテスと言う人の言葉で、 英語に直すと、

Art is long, Life is short

芸術は長く、人生は短い。

そう言った意味の言葉だ。ぼくの人生において、きっと忘れられないであろう言葉に出会った気がした。

17世紀の頃と、現代の芸術(アート)の解釈は若干異なってるようだけど、17世紀の頃の解釈で話を進めれば、その当時の芸術とは医療を差す言葉だったらしく、ものすごい簡潔に言えば、「医療を習得するには、人生は短すぎる。」と言う解釈だ。

現代の人は大体80年くらい生きるけど、ぼく的な解釈で計算をすれば、 20歳くらいで本格的な自我が芽生えたりしても、そこから一種のモラトリアムに悩まされ、本当の自分を見つけるのは恐らく30前後。そこから本気で物作りや人生を生きたとしても、歳を取ることや体力の衰えも考えると、せいぜい60代、頑張って70代くらいまでの、この30〜40年間が本当に自分の人生に懸命に向き合える期間だと思う。

もう、たった30〜40年しかない。下手したらもっと短い可能性しかない。長い可能性は少ない。

この一瞬の人生で、自分ができることなんて本当に限られてくる。 こんな短いのかと考えると本当にゾッとしてたまらない。

それにも関わらず、最近周囲から耳に入ってくる話はなんてくだらないんだと思う。 本当に意味のある仕事を辞めて、週末や仕事終わりにはいつもアホみたいに酒飲んでグデグデになって明日への希望や楽しみもないグータラで無駄な日々を過ごしてる奴がいたり、昔遊んだりしたしょうもない女とまだ連絡取ってて意味もない再会を続け過去に生きていたり、そんな話を聞くと本当になさけない。 時間で換算すれば、日々は同じ時間のペースで流れ、基本的には同じくらいの人生という期間が大まかだけどある。

なんで有意義にしないのだろうと思う。その危機感や実感が、きっと彼ら彼女らにはないんだろう。

それならそれでいいが、ぼくはいやだ。

それだけしかないのなら、数多くの事をやりたいとかじゃなく、本当に自分が納得できる決断をしたいし選択をしたい。そして本当に納得ができる物を作りたいし、残したい。ただそれだけだ。

人に何を言われようが思われようが、自分の30〜40年を生きたい。 ありがたいことに、おじいちゃんの最期が見えてきたことで、 死が、ぼくの目の前にも訪れた。 母親が死んだことで、死がより近くに感じた。 難病になったことで、死をほんの少しだけ実感した。

当然、死はぼくにはまだ怖いが、こうして死に触れる機会がちょっとだけあることで、より生を感じているはずだ。 人が死ぬということは、生きるを感じるということだと思う。

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