ぼくは30代になってから、少しずつお金の使途が変わってきている。 20代の頃は、お酒や外食、洋服とかの外見とか、とにかく外に外にお金を使ってきた。
どうやって計算しても、10年とちょっとくらいで数百万くらいは本当に身にならない使い方をしてきた。散々なもんだ。今そのお金があったらもっと本質的に大切なものに使いたい。
じゃあ何にお金を使っているかって考えたら、例えば最近で言えばちょっと高い羽毛布団を買った。掛け布団で5万弱くらいしたけど、でもその分ふっくらフワッフワで、気温が一桁台に入った最近でも全く毛布なんて必要ない。たった5万で今までの数十倍以上の”快適”を手に入れた。それに合わせてシーツや枕カバーも全部統一して揃え直して、パジャマも新しく買い直して、ざっと合計で7万近くは使った。
これを高いととるか安いととるかは人それぞれだろうけど、いや、今までそういうのにあまりお金をかけたことなくて、大体で済ませてきたから気づかなかったけど、この快適さはある種感動に値する。その感動がたったの7万で手に入るのかと思うと、しかもしっかり手入れして使えば掛け布団だけでも数年は使えるはずだし、仮に5年使えたとして一年に14,000円、10年使えたら一年7,000円の計算だ。安すぎる。
結局、良いものは良くて、本当に品質が良い、しっかりした作りのモノってのは、多少高くてもその価値は確実にある。そこにやっぱり手間暇がしっかり掛けられてるのが分かる。
これは先に言っておくが、ぼくはこの概念は全く間違っていると思うが、 「良いものは、売れてるもの」だってとある奴が言ってたな。 いやいや何度でも言うが、それは全くの見当違いだ。確実に間違ってる。良くないもんでも売れてるのがこの世の中だ。売れてるか売れてないか、そんな馬鹿げた基準でしか物事を測れないなら、ものづくりに一切携わらないで欲しいことは確かだ。
じゃあ一体良いってなんなのか?それを本気で考えないと。
もちろんぼくが言う良いと、他所の誰かが言う良いはきっと違ってるだろうけど、それは価値観の話で言えば別に当然で、これって幸せは人それぞれって言うのとよく似てるからなんとも言いようがないけど、でも、一つだけ言えるのは普遍的で、必ず良いものは存在するということだ。 それがなんなのか考えて、さらに、じゃあ普遍的って一体なんだろうか?とか、またそこも考えなきゃいけない。
要するにずっと考えていないと、本当に良いものってのが分からなくてなるよな。これだけ邪な世の中だから。
と、話はちょっとそれたけど、今は自分にとって幸せだと思える物事や体験に、お金を使うようになった。安っぽい言い方だけど外見とかじゃなくて、中身にって感じか。
相変わらずまた親友とそんな話しをしてたけど、オレたちは本物を作らなきゃいけないし、それがしたいし、そうじゃなきゃ自分たちがやってる意味ないよなってことだ。つまり、シンプルにそれだけだ。あと新しいものとかね。 ぼくはそういうのが欲しいから、そういうのを買いたい。 そしてそういうのを作るから、そういうのを求めてる人が買ってくれるだろう。 もしくはまだそういうのに気づいてない人に気付かせたいとも思う。 まあ結局はただそれだけだ。
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