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「505」パンドラの箱

世の中が基本的に幸せと呼ぶものは、結婚して家庭を持つこと、夢のマイホームを持つこと、安定した仕事や収入があり、老後はゆとり資金で過ごすこと。もちろん幸せの基準は十人十色ということだから、人によって違うけれど、それでも幸せの定義として用いられるのは、この人生の流れが一番ベターに思う。一番よく聞く。

いつからかは分からないけど、ぼくらは知らず知らずのウチにこれが幸せだと調教されてきたと思う。もちろん世の中にはこの流れに乗って、それでいて幸せを感じてる人は確実にいることも確かだから否定はしない。

でもどうだろう、例えばぼくの同級生の奴なんかは、可愛い子供がいる家庭、安定した仕事、夢のマイホーム。それら全て持っているのにも関わらず、幸せそうじゃない。口を開けば家庭の不満、仕事の不満。出るわ出るわ滝のように不満が。それを果たして本当に幸せと呼べるだろうか?

反対に、ぼくなんかは二度も結婚と離婚を繰り返し、儲からない会社の経営なんていう安定してない仕事をしていて、もちろんマイホームなんか持っていない。いわゆる世の中が言うところの幸せの定義の真逆を行っている。

でもその同級生の奴からしたら、ぼくが幸せそうだと。 ということは、この同級生の彼を幸せにする要素として、可愛い子供がいる家庭でも無ければ、安定した仕事でも無く、夢のマイホームももちろん違う。すなわち、それらが彼を幸せにすることはないのだ。もっと違うところに彼は幸せを感じると思うのだ。

もちろんぼくはぼくなりに幸せで、これからもっと幸せになる。

じゃあそもそも何が違うのか。それは、パンドラの箱を開けたか開けていないかということ。

ぼくはその箱を開けた。だからいわゆる普通の幸せというものがぼくは幸せに思えなくなった。その箱とは、年齢を重ねれば重ねるほど開かなくなる箱だ。自分に対して「まあこれでいっか」と言って今まで数々の色んな感情を受け流してきた分だけ、開かなくなっていく。

そのパンドラの箱ってのはつまり、中には本当の自分が入っている。ぼくは開けてはいけないと言われてた箱を自分の意思で開けて、本当の自分を見つけてしまった。 本当の自分を見つけてから、世の中が言う普通の幸せとはより一層距離ができた。

ある種ドス黒い欲の塊みたいなものが、箱の中身だ。でもそれはぼくからしたら透明で透き通った綺麗な丸い水晶玉みたいに見える。その塊は、本当に美しいものであり、それこそぼくにとっての幸せだと言える。

この箱を開ける行為というのが、本当の自分と向き合うってことだ。世の中と言う虚構とは一切区別して行わないといけない。そうしないとパンドラの箱は絶対に開けない。

例えば自分探しの為に1人旅に出たりするけど、そんな表面的で陽気なバケーションみたいなもんじゃない。本当の自分と向き合うことはもっともっと内面的。もっと奥底のドロドロした、触れたくないモノをこれでもかってほど探りまくり、どんどん奥まで掘り探らないと見つからないし、箱は開けられない。

仮にその同級生がぼくに対して幸せそうだって思ってるのなら、じゃあやってみたらいいが、多分、今現在持っている幸せな家庭や安定した仕事を少なからず犠牲にするし、下手したらどちらか失う。いや、片方だけじゃなくどっちも失う可能性だってある。本当の自分ってもんを知ることは、それくらい世の中とは掛け離れていることだと思う。

だけど、パンドラの箱を開けた人と、開けていない人とでは、作るモノや表現するコトは圧倒的に違うと思う。それくらいハッキリしてくる。

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