二つの違いについて、ある社会学者がとても分かりやすく簡潔に教えてくれた。
娯楽とはリクリエイション(レクリエイション)のことであり、人々が楽しくなって再び社会という日常に戻る為のもの。 アートは、社会の外であり、社会を生きるのをより困難にするもの。社会が安心安全便利快適ではない事を突きつけるものであり、人の心に傷をつけるもの。
そういう事らしい。この言葉はここ数年の自分の中にあったモヤモヤに対して明確に回答してくれた。
ぼくにとって、アートの概念として植え付けられたのは、忘れもしない20代前半の時、あの日は若干曇り気味で、昼下がりの割に薄気味悪く空がどんよりしていて、車で大阪方面を目指して高速を走っている時、突如として太陽の塔が現れた。それを見た時の鳥肌。まさになんだこれ!?という衝撃を植え付けられたのだ。
社会学者が言う所の、心に傷がついた瞬間だった。
その傷を負ってから、なんとなくでも分からなくてもいいから色んな美術館に行ったり展覧会に行ったりしている。別に芸術を語れる知識も何もないが、そうこうしてるうちに十年近くが経ち、ここ数年で自分にとことん向き合うようになってからまさに社会が安心安全便利快適ではないとハッキリと気づき、社会生活を生きるのが困難になってきた。(ネガティヴっぽい、〇〇された、という被害的な言い方をしているが全くそうではなくて、されるさせたってのは、影響を与えた与えてくれたという事で捉えて欲しい。)
この日記を読んでる人がいるなら、何が困難かっていうのは是非自分で体験して欲しい。これは言葉や文章とかっていうチープなツールなんかじゃ伝わらない。肌で体感する以外方法はない。頭では解決できないし本当に知ったことにならないから。そして知った後はじっくりそれについて考えて欲しい。どれだけ時間を使ってもいいから。その先気付いたとき、きっと社会生活を生きるのを困難にさせるから。
そういう意識になってから、より俯瞰して社会の中と外というものを見れるようになってきた。これが思ったよりものすごい意識的に見れるもんで、自分の中で少しずつだけど中と外がシンクロし始めていたりする。
少し前にも書いた生物学者の話しが面白い理由はまさにそういうところで、社会の中の営みであったりイデオロギーだったりヒエラルキーなんかは、そんなのまるでちっぽけだぞって教えてくれているからだ。だからこそテレビやタレントという社会の中だけが全てとしている人達の話なんかはもうまるで面白くない。
あと、娯楽を否定している訳ではなくて、アートの概念を少し知った上で、娯楽を知ることもまた楽しく感じる。娯楽には娯楽の概念があると思う。
ただ必ずしもこの二つが一緒だということではないというのが、冒頭の社会学者の言葉でますます腑に落ちた。そうすると、まだまだ知りたいことがどんどん出てくる。世の中ってのは知らない事で出来ているんだな。
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