国というのは、基本的に同じ言語を話していることがほとんどだ。もちろん国の中には海外からの移住者や労働者などが混在するから、違う言語だって存在するけど。 でも大きく言ってしまえば日本では日本語が当たり前、フランスならフランス語だとか、そういうのが基本的だと、国というくくりとしては言える。
でもでも、ぼくが本当に思うのは、同じ言語を話し、同じ文字を書いたり見ているにも関わらず、通じないことがある。と感じる。
固有名詞として、東京タワー、北海道、ビートルズとか、それは誰が見てもその事物は他に存在しない。だから基本的に話が通じないことはない。東京タワーは東京にあるし北海道は北海道。ビートルズはミュージシャンでズートルビじゃない。
でも、大きい、深いとか、重いとかって、基本的に人の感じ方に左右される。すなわち人によってその感覚はバラバラだ。富士山は大きいが、エベレストを知ってる人はもっと大きいを知っている。子供用プールだって、小さい子供からしたら深い。 ただ、この辺りはまだまだ会話の中である程度調整がきくと思う。
しかしそうじゃない言葉はだいたい厄介なのだ。分かりにくいかもしれないけど例えば、人と物作りについて話しているときに、本質ということが会話に出たとする。そんなとき、相手の思ってる本質と自分が思ってる本質の概念がちょっと違っているのにも関わらず、本質という言葉をそれぞれが自分の感覚で捉えていて、それでもそこを修正せずその話が進んで言ってしまうことがある。そして蓋を開ければ、本質がずれていることになったりと。結構分かりずらいけどまあいい。
こういうちょっとしたところで、ぼくは人とは日々ずれが生じていると思う。相当普段から損得なくいろんな話をしていないと、自分が言ってる本質の意味と相手の言ってる意味は合って来ない。それは、それぞれが持ってる情報や知識や経験や体験、そう言ったものが全く違うから。 だからどれだけ自分が相手のためを思っていろんなことを語ったとしても、自分の思ってることが100%全て届くことはなかなかない。それは相手がその言葉をどう理解しているかに全てが委ねられるから。散々話し合ったのに分かり合えないことだってたくさんある。散々気持ちを伝えたのに届かないことだっていくらでもある。多くの場合は自分のエゴで終わる。だってそもそも、その話や言葉の、文字の、漢字やひらがなカタカナの意味の捉え方が違ったりしてるんだから。
これが大人になってから本当の友達が出来にくい理由の一つでもあると思う。子供のころは、言葉なんかじゃなくてフィーリングで知らないうちに仲良くなってたりして、そこからずっと親友でいたりする。難しい言葉とか知識や経験とかなんて当然大きくなってからの方が多いのにも関わらず。
こうやって根本的に違うのに、同じ言葉がそこに存在するのが良くも悪くも言語の一つの側面だと思う。そういう言語を超えていくのがある種スポーツとかな気もする。
だからこそ、言語はあくまでもツールである。伝える手段であり、受け取る手段。そう考えたらそれってなんとも”人間”らしいなと感じる。
言葉を駆使して人と通じ合う事はなかなか簡単な事じゃないと感じる。
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