自分は社交的で、誰とでも仲良くなろうと思えばなれるのは、自分でも知っている。それは以前までの自分で、今のぼくはかなり違う。
人と交わることを拒むし、出来るだけ新しい人とも会いたくない。出来るだけ自分の中で生活をしたい。
そう思い始めたのも、先日ちょこっと書いた「社会の中と外」という概念がしっかりと芽生えてしまったからだ。この概念や意識が芽生えると、社会の中にしか意識や概念がない人とは価値観や思考思想がなかなか合わない。いやほとんど合わない。いや合わない。
ぼくからしたら話してる内容が物凄いつまらなくて。結局その話をしてるのは社会の中にいるあなたの視点での話しなんでしょ?と。
社会の中で社会の話をしても面白くはない。社会の外で、社会の中や外の話をしないとそれってそもそも本質じゃない気がしている。
そう考えるようになった2〜3年前から、随分と孤独を感じるようになった。 その時はまだ「社会の外」という言葉に出会っていなくて、それをどう表現したらいいか自分でも分からなかった。 だから余計、いろんな話しをしても伝わらない苛立ちもあったし、呆れとか、とにかくフラストレーションが溜まった。当時付き合ってた彼女がいたけど、あまりにも話しが噛み合わなくてもう別れた。最後の方なんてほとんどぼくは無言状態だったと思う。2人で過ごす時間が苦痛でしょうがなくて、ぼくから言った。 そして物作りが進めば進むほど、さらにその思考思想は内へ内へ向かっていき、より一層、社会の外に意識が出て行って、家族や親でさえも話しても価値観が違いすぎて全く話にならなかった。SNSもやめて、時には仕事以外では外部との連絡もほとんど遮断して。それくらい孤独感を感じていたから、相当暗かったのは自分でも気づいている。だって人に会っても話すことが無さすぎて変に緊張してくるくらいで。 今でも大概の人はぼくに今までのように接してくるけど、もう今のぼくとは合わないのが分かってしまうのだ。
唯一1人の親友にはその話が伝わったのが何よりもの救いだった。ほとんどその彼としか本質的な話しが出来なかった。彼も同じ孤独感をずっと昔から感じているから。
こうやって孤独感を感じていたり、簡単に解決出来ないフラストレーションを抱えているからこそ、物作りができるとも思っている。世の中に対しての怒りや不満がなければ良いものは生まれないという理由も多少理解できるようになった。
この孤独感こそ、マイノリティの本質でもあると思うし、間違いじゃなかったんだってことを、結果的に物作りが教えてくれている。孤独感を味わえることが、この短い人生の醍醐味なんだろう。
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