昨日も親友とジムに行き、いつも通り運動後にサウナと銭湯を行き来しながら話をしていた。
(話は脱線するけど、こうした時に話す内容はいつも物作りの本質的な話で、毎度親友の思想や知識量には驚かされる。サウナでの話はもちろん、ジムに行く道中での話、ジムに着いてからストレッチをしながら話す内容。そのどれもが、側から見たらただダラダラと話してるようにしか見えないだろうけど、こうやってディスカッションする時間が圧倒的に人より多いことによって、この2年、3年で急成長できたと自負している。映画の内容について、音楽やアートについて、漫画やアニメなど、森羅万象全てにおいての話や、思想や哲学の話とか、圧倒的に人より考えてるから、ディープなところまでいけてると思うのだ。ここでの会話の思考や思想は必ず物作りに反映されている。)
と、話が脱線しすぎて何を書きたかったのかコロッと忘れてしまったけど。。その親友とは常にずっと話してる。自分たちの話す技術を高めようと、今は休止中だけど完全オナニーのYoutube番組もかれこれ5年くらいはやったし、それ以外でも会った時は常に話してる。今だに最低でも週に1度〜多いときは週4位で会ってたりする。とにかく話が尽きない。奴の知識量や情報量が圧倒的に多いから尽きないというのもあるだろうけど。
初めはぼくも何かのテーマや話題に対してあーでもないこーでもないと話をすることには慣れていなかった。つまりそれは、そこに自分の意見が全くなかった。
例えば映画を観て思ったこと、感じたこと、気づいたこと。それは映画だけじゃなく音楽やアート、漫画や本、ニュース、日常で感じたことをとにかくなんでも。いろんなことに関して自分の意見をのべること。これが非常に不得意だった。(というかよく考えたら日本の教育システムがきっとそうさせてるという答えにも行き着くが。。)
それが、今では少なからず、自分の思想や哲学が生まれてきた。要するに話をすることによって、非常に身についたと思うのが、自分としての意見や思考。
以前と格段に変わったことは、例えば友達とかに、いい映画、いい音楽、いい本、いい記事などを共有した時、何を持ってして”良い”と思ったのかをしっかりつけてシェアする。そして、友達からシェアされた物に対して、それを観たり聞いたりした上でどう思ったのかの感想を送り返す。
これはぼくと親友とがLINEで常にやってることだけど、はっきり言って親友以外の全ての友達は、感想もなければ何が良いとしてシェアしてきてるのかさっぱりわからない。こっちがその抽象的な不明確な部分を探し出さないといけない。それにこちらからシェアしたモノも、きっと観たり聞いたりしてるとは思うけど、結局見て聞いて読んでどう思ったのかとか、感じたとか、それを自分の言葉にしない。その時点でそれは自分のモノにならないと思う。
「これよかったから見てみて」と言われたからみる。「まじでめっちゃよかった。久しぶりに感動した」はい、だいたいみんなの感想はこれで終わり。でもこれが一般的で大抵の人がそう。いや、こんなのどこの誰でもできる。そんなんじゃなくって、一体どこの何に感動して、それはどういう理由から来るものだったのかまでは考えてない。いや、もちろん本当に心震えるものって、言葉に出来ないくらいの感情になったりするからわかるけど、そうじゃないってのがわかる。
結局、一個一個のモノを本当の意味で真剣に見てないんだよな。別に観て聞いて読んで良くなければそれでいい。とにかく基本的にはみんなディスカッションが全くないんだよな。
ただなんとなくジムに行っているようで、全然そうじゃなくて、別に本気とか意識が高いとかそういう薄っぺらいことではなくって、本質的で当たり前なことを話せるこの時間が、いかに大切でかけがえのないものか。これにもっとみんな気づいて欲しいけど、なかなか出来ないか。でも、もともとそうじゃなかったぼくが言うんだから本当だと思うけどね。
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