日本の美っていうものを、頭が悪いながら本を読んだり何か見たりしながら探っていっているんだけど、環境や神道など文化的な所からくる部分を遡っていった時、見えてくるのが自然を取り入れるという概念で、利用するというより、神の思し召しを受けるというか。そういう部分が美に値するんじゃないかなって思い始めている。
西洋のガラスで煌びやかな、自ら光を放つ装飾とはちょっと違って、日本家屋なんかでは、日の光を取り入れて室内を明るくしていたり。近年では自ら光を放ったとしても、和紙やなんかで覆って、光の量を薄明かりに調整したりして。ハッキリ光を放っていないあのぼんやりした感じ。間接照明とかもその美しさになるのかな。
あと空間で言えば、縁側とかいう、室内とも室外とも言い難い、すごい曖昧な自然と人口の境をなくしてるかのような空間を作っていたりする。 他にも面白いのは、全く何もない空間に樹齢何百年の木を4本立て、その四角い囲いの中に神を宿し、それを手を合わせて拝み、崇めたりする。さらに、そこに宿る神のため、鳥居という同じように樹齢何百年の木を立て神の道を作ったりと。木を使ってそんな崇拝するべきモノまで作ってしまうという美しさ。伊勢神宮なんかでは、建築に使う木の価値なんて、もうすごいことになってだろうし。
もっと他にもいろんな美はたくさんあるけれど、ぼく的にそれらを勝手に総称してみると”拝借する”ということなんじゃないかって思う。
自然の恵を”借りる”という感覚こそが、日本の美意識に通じるんじゃないかなって最近は考え始めている。(もっとたくさん知ればまた違った見え方、意見になるかも知れないけど。)
その借りる意識があるからこそ、自分のモノのように大切に扱い、もったいないと言って隅々まで使い切るし。
モノに対してそういう価値観があるからこそ、西洋の様にふんだんに、持て余すかのように”飾り付ける”という装飾の文化にはならなかったんじゃないのかなぁと考えてみたりしている。
使いすぎはもったいないし、ちょうどいい分量で使うことが最も良いこと。 ミニマムではなく、シンプルがしっくりくる。そのシンプルからくるのが、引き算の美だと思う。
その引き算した先には、”何もない” が ”最も美しい”ということになるんだと思う。この時の”何もない”とは、物質的な物が全くない、真っ白な光の中のようなってことじゃなく、”人工的なモノが何もない”ということで、それが最も美しいということだろう。
やっぱり自分で何かモノを作ったりしていても、結局自然のモノの美しさには敵いっこないし。だからこそ、作るモノに”自然”を求めたりするんだよな。そういうのが、ぼく的に思う日本の美意識なんじゃないかなと思う。
今自分が作ってるモノも、やっぱり自然に生まれたモノを借りて作ってるんだから面白い。それも無意識的にそうなってるんだから面白いよな。
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