自分は変えられるが、言葉は変えられない。 10年経っても変わらない物を、情報と呼ぶ。
こうしてまっとうな言葉を聞くと、なるほどなぁと感心する。 自分という物はいつだって変えられるし、否が応でも変わっていく物だということはもう受け入れざるをえない事実で、変わらない人なんて存在しない。
例えばぼくがこうしてブログを書いている中で、1年後、もしくは10年後に言ってることはきっと変わっていると思う。良い意味でも悪い意味でも。なぜならそれは、ぼくという人間そのものはいろいろ吸収し、学び、経験し、得たものの中から言葉を発するからだ。物質的に変わっていくはずだ。
だけど面白いのは、一度発した言葉はもう変えられない。「武士の一文」とか「男に二言はない」というような言葉はすごい当たっていると思う。 例えば人前で話す人なんかの場合、その人の話を聞いた人の中に言葉は残る。もしくはこうしてブログなんかに言葉を載せちゃった時点で、その言葉は世の中に存在してしまう。発した言葉は変えられない。編集して更新しちゃえば変えることはできるかもしれないけど、その編集の前に見てしまった人の中には編集前の言葉は残る。そういう重みを知って、言葉を使わないといけないと感じさせられる。
だからこそ、SNSで適当に発してしまったことはもう変えられないし、それはデータとして永遠に残り続ける。自分も知らない手の届かないようなところで存在し続ける。
それら全てを”情報”といい、10年経っても変わらずにそこに残り続ける。昔はその情報を紙に手書きで書いてたりしたから、しっかりと残る形で蓄積していく方法がそれほどなかったけど、現代社会ではこの情報を様々な形で蓄積することができるようになった。だからこそ情報過多になってきている。
その情報過多の中に、湾曲してしまってる情報もたくさんあるからこそ、こういう情報過多の社会の中では本物を見極めることが一番難しいように感じる。
もうちょっとこのことについては勉強してみて、改めて自分の物になってから書こうと思う。
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