前にブログので書いたけど「made in」から「made by」へ、グラデーションの様に変化してきているのが、ぼくには目に見えて分かる。世間ではまだ「made in 〇〇」とか「〇〇産」という様に、国や地域の押しが強い様には見えるが、実は本質的にぼくらが求めているところって違うように思うのだ。
特にぼくらの場合は分かりやすくて、岐阜という場所で縫製工場をやっているから「made in 岐阜」と言いがちだけど(恥ずかしながら実際ぼくも昔言っていた)これって実は武器でもなんでもなく、それはある種”自信のなさ”であり、バックボーンをつけたがっているという事にぼくは気づいた。
実に表面的であって、内面的ではない。
これはぼくがモノづくりによって導いた答えで、表面的に世界や世間をみても何も始まらないし答えは出てこなくて、本気で内なる自分と何度も何度も対話した末に気づいたことだ。
岐阜で生まれたから岐阜を誇りに思うというのは違っている。 “たまたま”ぼくが生を授かった場所が岐阜というだけである。そこに実家があり家族がいるというだけだ。
じゃあ”ぼく”という人間が北海道で生まれてたら?沖縄で産まれてたら?どうなってるだろうか?made in 北海道”の”やまだまさきか? made in 沖縄”の”やまだまさきか?
全く違う。その場合は、やまだまさき”は”北海道生まれ、やまだまさき”は”沖縄生まれ、という順列が正しい。 要するにたまたまそこに生まれただけで、ぼくはどこで生まれようが、ぼくはぼくだ。”ぼく”という人間の本質はどこで生まれようが変わらない。
だからこそ”ぼくがやりたいこと”は何か?が重要だ。
ぼくが作る服は一体どんなものか?どんな思想があり、どんなメッセージがあり、どんなものを作るのか。場所なんて全く関係ない。国や地域なんて一切関係ない。ぼくはぼくである。それは誰にも変えられない事実だ。
だからこそ「made in」じゃなくて「made by」でなきゃ、本質的ではないと思う。その人が思ってることを聞きたいし、その人の作ってるモノを見たい。その人の作ってるモノが欲しい。そうでなきゃ。
テレビやメディア、SNSなど様々なコンテンツに出てくるほとんどの人や、いわゆる世の中のほとんどの事が虚構であるから、見極めにくいと思うけど、それでも見極めないとずっと間違ったものを見て聞いて手にして口にして匂って、と繰り返してしまう。
だからこそぼくは「made by ぼく」でありつづけたい。 ぼくは本物でありたい。嘘をつきたくない。
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