「285」FPS(一人称)について
- 山田 雅樹
- 2018年12月28日
- 読了時間: 2分
全ての人間が、ゲームでいうならFPS(一人称)の視点で生きているんだなーって考えると面白い。PUBGとか荒野行動のように。何をするにも、何を見るにも、全て”自分目線”でしか物事を見れないし、そこに客観性というのは本来なかったんだろうなって推測する。
「自分の目で見たものだけが真実」という概念がもっと今より強かったように思う。
鏡というのがいつ出来たか知らないけど、鏡で自分を見れる様になって初めて、TPS(三人称)の視点が生まれたんじゃないかなって思う。だから鏡がある以前と以後では、物事の考え方がガラッと変わったに違いない。鏡を作った人間って、本当に素晴らしい。時代や世の中を変えただろうな。きっと当時は今のインターネットやスマホみたいな価値なんだろう。
まず、そもそも自分の容姿とかを自分で見ることは出来なかったし、例えば相手から「かっこいい」「可愛い」と言われても、その言葉を信じる以外なかったんだろうし。幸か不幸か、どっちがいいとは言えないな。
自分の容姿が見られる様になって、第一印象っていうのなんて正に容姿でいろいろ決まってくることだろうし、容姿端麗の人はずいぶん得してるだろうし、そうじゃない人はそれなりに苦労することもあるだろうし。。その逆とかもあるだろうけど。
自分の中に三人称の視点が加わったことで、社会が出来上がったり、道徳が出来たり、客観性が生まれたように感じる。
だけどその客観性も、最近は度が過ぎてるようにも感じる。本当に思ったことを言えなくなっていたり、社交辞令や忖度なんて言葉も存在するくらいだから。
そういう意味でも幸か不幸か難しい。FPSのゲームをやりながら、ふと思ったことだ。
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