だいたい月に一回、親友ととある理由で長時間話すことがある。その彼とは普段ジムに行ったり映画を観に行ったりするんだけど、それでも話すことがなぜか山のようにある。まるで女子高生のように、あった出来事をほとんど包み隠さず丸裸で話す。それでも月に一回、ある目的で集まって話しているけど、なんでこんなに話が尽きないんだろうか、全く不思議だ。だいたいぼくより彼の方が話しているんだけど、それでもなぜこれほどまでにずっと居られるのかも不思議だ。
昨日はそれで、長時間話してることへのある結論が出た。「話す相手が周りにいない」ということだった。いや、普通に話す相手は困っていないけど、そうじゃなくて「思想の話」をする相手がいないということだ。
あともう一つ重要なことは、こういう話をするとき、丸裸であるということが重要だということ。ウチから出るものをそのまま話す。何も包み隠さない。これがものすごい重要だと思う。
しかしどうだろう、今の世の中でこの話ってどこまで通用するんかなって考える。きっとビジネス的に言うと時間の浪費。時間のムダ使いなんて言われてしまうだろう。それに、相手との駆け引きを考えたりして、ウチの自分をさらけ出すことすらも許されないんじゃないかな。時短。最短。浪費。効率。という言葉に、このムダ話は負けてしまう世の中だろう。
でもこのムダ話こそ、一番必要だとよく彼と語っている。こうして本当の話をすることで、自分がどんどん見えてくる。これはものづくりに非常に似ている。モノづくりこそ、ムダの連続からなり、そしてまたウチなる自分との対話であるから。無駄話って実はモノづくりと全く同じ作業をしていると思うのだ。
アメリカの作家デビット・フォスター・ウォレスによる面白いスピーチがある。「This is Water(これは水です)」というアメリカの大学の卒業スピーチで話たことだ。
2匹の若いサカナが泳いでおり、逆方向に泳ぐ年上のサカナに会いました。すれ違い様、年上のサカナはこう言いました。「おはよう少年たち。今日の水はどうかね。」2匹のサカナは特に気にもとめず、しばらく泳いでから、顔を見合わせて言いました。「てか水って何?」
この意味は、「人生において、もっとも自明で大切な現実は、得てしてもっとも見えづらく考えにくいものだということ」という意味だ。(詳しくは本やyoutubeでどうぞ)
ぼくの解釈からすると、ぼくら人間は、空気を当たり前のように吸い呼吸して生きているけど、空気そのものについて詳しく知らない。その空気についてしっかり考えてみよう。そしてその空気を考えることで、自分という人間について考える。それが人間が生きる本質であり死であるということを、この「This is Water」では語っているとぼくは思う。
まさに、ムダ話もこれと同じく「モノづくり=自分の内と向き合う=生きる死ぬを考える=人間の本質」の話ということだと思うのだ。
だからムダ話は、実はもっとも見えづらく考えにくいものであると思うから、そのムダ話についても大いに考える必要があると思うのだ。
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